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なぜデザインなのか。

Posted on 2012年10月11日 | No Comments

原研哉と阿部雅世によるデザインをめぐる対談。 サブタイトルは、Dialogue in Design。


グラフィックデザインって、要するにヴィジュアルな素材のすべてをタイポグラフィという技術で編集する、思考の容れものを作る作業なんです。文字、言葉という思考、知の容れものですよ、本というものは。


空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、二つの手を合わせて水をすくって飲んだはずです。それが器の始原。器という道具の原点、原型です。
(中略)
ひとつは世界を加工変容していくための「棍棒系」の進化、もうひとつは、ものや知恵を保持していくための「器系」の進化。この二つを対にして考えることが、大事だと思うのです。服や家、言葉に文字、それを入れる書籍などは、「器系」だと思います。棍棒から進化してきた道具ができていくというのが、いままでのデザイン観であるなら、そこに器という、もうひとつの道具の原形があったと考えることで、デザインのイマジネーションは変わるはずですね。


ある企業で聞いた話ですが、工場で働いている人たちの仕事の能率があまりにも悪いので、試しに国語のテストをしたら、びっくりするくらい語彙が少なく、成績がよくなかったそうです。たしかに「うぜーな。うぜーよ。メシいこうぜ。マジっすか?」くらいの言葉で済んでしまう世界がある。
(中略)
それはマズいと思って、その企業は国語教育を始めたんだそうです。それで、彼らが国語が少し面白いと思い始めたあたりから、俄然仕事の効率がよくなった。

阿部
心地よさとか豊かさっていうのは、ある意味、空気の量だなと思いました。同じ広さでも、天井が低いと、たぶんもっと圧迫感があるはずです。いまはなんでも平米で換算するでしょう。だけど体積で生活空間を換算するようになると、豊かな空間ってずいぶん増えると思いますね。


西山卯三さんが2DKというのを考案した時は、結構まじめに日本の住空間の研究をやったし、同潤会アパートなんかはその延長にあるわけですけど、よかったのはその辺りまで。そこから先は2DKという概念が「不動産用語」になりはててしまった。だからいい教科書がないんですよ、現代をいかに住まうかという。不動産屋のチラシがそのまま教科書になって「欲望のエデュケーション」が行われてしまったので、3LDKに対する欲望はあるけれども、自分の暮らしの空間を自分で編集していくっていう欲望は、日本の場合はやや希薄ですね。


中原中也の日記に「デザイン、デザインって? そんなものは犬にでも喰はせろ。歌ふこと、歌ふことしかありはしないのだ」という言葉があります。


エンツォ・マーリが奇しくも「オレたちは子どものころからミケランジェロを見て育っているんだ」と言ったように、もっと明るい陽気な造形性に満ちている。放っておくと手が動いて、何かものをつくってしまっているという。

阿部
そう、本能なんです。


考えるより先につくってしまって、その後で理屈をつけるのがイタリア。


現代社会のいちばんアクチュアルな問題に触ろうとすると、企業やブランドの戦略に手を貸すだけでは解決しない。デザインの根源的な力は、ものや環境を考える上でのものすごくしなやかで柔らかい合理性を社会全体に浸透させていくエデュケーショナルなものである。

阿部
ここは土鍋の生産が下火になった時に、ピカソが来て芸術陶器の町として再生させようとした町だと。自分の陶器の作品をぜんぶ寄付するから、陶芸の学校を建てて世界中から陶芸のアーティストが集まる町にしたらいい、そういうプロジェクトの絵まで描いたのに、市はノーと言った。「教養がない土地は、滅びるしかないんだよ」と、その老職人は言っていましたね......。


自由のなかで育ちすぎるとひ弱になる。ぬるい自由というのは、必ずしも人を強くはしないですからね。


自由がなくて切実に自由が求められている時には、自由はすごく大きな価値ですが、供給過剰になると人は何かが見えなくなってしまう。たとえばいま「私らしく」とか言うでしょ。そういうことを自分で言うな、と(笑)。僕が「あなたらしく生きたらどうだ」っていうのはあるかもしれませんけど、「私らしく生きようと思ってえ~」とか言うんですよ(笑)。それはレトリックとして違うだろ、と。

阿部
他人から見て「あなたらしい」ということですよね。


そう。束縛が個人を押しつぶそうとしている時には「らしく」ということがとても貴重だし、自分のアイデンティティをことさら意識する必要もある。しかしそういう文脈をまるで考えないで、もう無条件に個の志向を優先するのが正しい価値観だというふうに刷り込まれてしまうのはまずい。

阿部
ここ10年ぐらいですか、「自分探し」とか「私らしく」とかいう言葉がものすごく流行っていますでしょう。何に刷り込まれたのか、「自分のやりたいことが見つからない」とか言う子がいっぱいで。やりたいことなんて一生かけて探せばいいんだから、それよりいまできることを一所懸命やってくださいね(笑)。

阿部
デザインは「私が好きなものをつくること」じゃないですよね。


そうです。主体は自分にあっても、自分勝手ではない。図工というのは、言い換えれば「クリエイティヴィティ」ですね。いま日本の基礎教育の中で図工の時間が減っているのですが、これは糊で色紙を貼るような「作業の時間」が減るのではなくて、「創造性」の時間が削減されていると考えた方がいい。国語、算数、理科、社会、図工はあまりに身近になっているので、ぴんとこないところがありますが、言い換えれば「言語」、「数学」、「科学」、「世界」、「創造性」です。科学に創造性を掛け合わせるからノーベル賞級の独創的な研究が生まれる。クリエイティヴィティを過小評価してはいけないし、させてもいけない。これは僕たちの役割かもしれないけれども、デザインは、基礎教育の中でのポジションや存在意義をはっきりと主張していかなくてはいけないでしょう。


ベンチャー系の若い企業オーナーたちはビジネスを生み出す独創性には優れている反面、文化に対する責任感が希薄です。というか、自分の利益や趣味に直結しないものは疎んじて遠ざけるという傾向がある。


ものやコミュニケーションを通して、錬度の高い合理性に、ひとりひとりが目覚めていくということがデザインの理想ではないかと。ひとつのコップの中に内在する知恵の連鎖に気がついていくことで、感覚的に世界がバランスされていく。そういう意識を共有することで、わだかまっていた問題がすーっと解決していく。
(中略)
「感覚の平和を目指して世界を調停していく力をデザインと呼ぶ」と。だから経済のことも、単にマネーの量に帰してしまうといびつさを生むのだけれども、デザインの中にはそういういびつさを緩和していく作用がある。デザインはものづくりの知恵であるけれども、ものをつくっただけで完結するものでもありません。

阿部
なぜハプティック・インターフェース・デザインなのかを宣言しなければいけなかったんです。それで、「触れる感覚に名前を与えるために。触れる文化を呼び覚ますために。それから、人の手と最新技術をつなぐために」、そしていちばん最後に、「私たちの手で、世の中は変えられるということを思い出すために」と書きました。触るというのは非常に人間的な、感情的な部分ですけど、人間の本質であるし、暴力とお金の次の共通言語は、触った感じなんですね。

阿部
世界有数の技術大国でありながら、「技術は、何もハピネスを生み出していないのではないか」と、対談の中で原さんが、ふと漏らされたような現実は、戦後の日本が、半世紀以上にも渡って教養や哲学に時間を割く余裕のない、即戦力としての優秀な技術者ばかりを育ててきたことに帰するのかもしれない。確かに、ハピネスは、技術からではなく、教養や哲学から生まれてくるものだ。私が対談で述べたハピネスは、技術の楽しい使い方という、あまりにも些細で無力な例だったかと思う。「教養のない土地は、滅びるしかないんだよ」という、ヴァロリスの老職人のつぶやきは、日本中にこだましている。

阿部
都市の美しさとは、日常生活の中の命の美しさである。ハイテクも高層ビルもないのに、ナポリが美しいのは、そこに生活する人々の命が美しいからだ。都市は、個人の日常生活という小さな細胞でできている。個々の細胞が、活き活きと再生するならば、日本の都市もまた、健康を取り戻すことができるはずだ。そして、それが世界のどこかで、同じ問題に遭遇するであろう都市や、人を、勇気づけることにもなる。
酔いを醒まし、同じ危機感を共有する人と手を組み、置き去りにされた思想まで、濁流をさかのぼって戻ること。その思想が完全に埋もれてしまう前に、素手でそれを掘り起こすこと。感覚を研ぎ澄まし、その中に封印された哲学を読み取ること。そして、その上に、骨格のある日常生活を構築し直して、次の世代に手渡すこと。
それが、これからの、日本のデザインに課せられた、いちばん重くて尊い課題ではないかと思う。
そして、それができた時、私たちの暮らしは、初めて、少し救われる。

全文を引用したくなるくらいの二人から紡ぎだされた言葉の強度。デザインを超えて、国のこと、個人のこと、技術とハピネスにまで、自然にシームレスに広がり繋がる。デザインの本質と豊かさを考えるために。

なぜデザインなのか。



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